吉岡信彦 味わい豊かな埼玉を。
がんばろう日本!
2010/02/10〜18  ヒマラヤを仰ぐ旅、ネパールを訪ねました。
 

本庄ロータリークラブに入会している高校の同級生・茂木君の誘いで、2月10日から18日までヒマラヤを仰ぐネパールへ行って来ました。

本庄ロータリーで2年後にネパールへ学校を寄付するために現地の下見に行ったのですが、事前には作った所を見に行くと書いてしまいました。間違いです。選挙の直後で忙しいとは思ってました
が、二度と行けるチャンスは無いと思いお世話になりました。一行は5名で茂木君の知友ばかりですが、皆さん気持ちの良い方で楽しい旅でした。

飛行機へ乗る時は『死んでも命がありますように』と虫のいいお願いをするんですが、飛行機へ乗る前に成田へ行く車中が何よりも怖かったです。
2月10日午前4時に家を出て暴走族の様な若々しい運転の車に乗り、怖い怖いスタートを切りました。


ネパールへの直行便は無いのでご案内はバンコクから入りますが、成田から約7時間ほどでタイの首都バンコクへ着きました。日本との時差は2時間で、時差ぼけする程ではありません。ここには高校時代の恩師・藤江先生がご夫婦で住んでおられ、夕食のご案内をしていただきました。高校時代に登山部の顧問をなさっており、部員だった茂木君とは今でも親交をもっています。先生は定年後にバンコクへもマンションを購入し、本庄市と掛け持ちでお住まいの優雅な生活を送っておいでです。

先生のお話によると「タイでは貧富の差が極端で、金持ちは子供にベンツとメイドを与えていたりする程であり、貧者は自宅で調理をする事も無く路上の屋台で食事をする事が多い」のだそうです。
今は冬のバンコク。それでも気温32度も有る常夏の国で地球の大きさを実感させますが、この後の3・4・5月は暑くてとても大変だそうです。しかし様々な人種が混在する熱帯雨林気候の中で人々は逞しく生きています。特にモンスーンは激しくタクシーの乗車拒否もあるそうだけど、それなら最初から走らせなければ良いと思うのは余計なお世話かしら?


この2枚の写真は、バンコクでも超有名なゲイのショーを見たときのものです。

泊まったホテルで開かれていたんですが、この美人達も男なので中に居る私の顔はニヤケていても口元は引きつってます。(人は化け様でどうにでもなるんですネ!怖い怖い)


11日はホテルから空港へ、そして4時間程のフライトでカトマンズへ到着です。空港では軍隊が銃を持って出迎えているので、一瞬フームと感じます。ネパールは日本との時差3時間20分でカレンダーも大幅に違っており、日本では2010年2月11日がネパールでは2009年10月28日でした。

なお、ネパール人の平均寿命は男性で65歳女性で60歳くらいだそうで、20歳くらいで2〜3万円の月収が多いそうです。生活は厳しいんでしょう。


ネパールの人口は約2700万人とされていますが、30年程前からカトマンズは人口の大膨張が始まり現在約300万人くらいらしい。カトマンズの多くは沼地状だった所で、干し上げて住宅地に変換してきたためホコリも多いのかと感じますが、ホコリと排気ガスで意識はモウロウとしてきます。マスクで防御している人も大勢見受けましたが、白いマスクは皆無で、黒や茶と汚れの目立たないものばかり。バンコクも車とバイクの洪水でしたが、カトマンズはもっと酷く歩行者も含むグシャグシャの世界で、日本の暴走族でも走る事など不可能でしょう。

自己の存在を主張するためと、邪魔なものをどかすためにクラクションは鳴らしっぱなしなので、『よく事件にならないな』と感心しますが、不思議に事故はほとんど起きないらしい。
仏教とヒンズー教を信仰し、出会いのときには両手を胸の前で合わせ「ナマステ」と挨拶しあう心優しい人々が展開する交通地獄は、理解し難いものがあります。

国土のほとんどが山地なので、人々が平らで住みやすい都会へ集中するのはやむを得ないと思うけれども凄まじい〜の一言です。


夜は民族舞踊と音楽を楽しみながらの食事でした。ネパールはイギリスの植民地でしたが収奪するものがないのでインドが管理していたと言われる様に、インドの影響が色濃い感じです。

電力事情が悪いために停電は日常で、自家発電を行なっている所も多数有ります。必然的に夜の閉店は早く歓楽街などありませんので、ご安心くださいませ。
また、少し前まで一家で4〜5人の子供は当たり前だったものが、生活の厳しさで1〜2名となっているそうです。


翌12日は早朝7時前にホテルを出てエベレストの遊覧飛行へ出かけたんですが、雨模様で視界が悪く飛行機が出ませんでした。その後9時発の小型プロペラ機(写真)にてネパール第2の都市ポカラはバイラク空港へ向かいました。定員30名程でほぼ満席、40分くらいで到着ですが、車で移動すればガタガタ道を9時間はかかるそうです。ポカラでも小雨模様でした。この飛行機は国内線を飛ぶイエティ(雪男)航空ですが、以外とひょうきんなネーミングです。

なお、カトマンズではヒンズー教のシバ神を祭る有名な寺があり、13日には遠くインドからも歩きで大勢の信者が集まる祭典が開かれるそうで、混まない日で良かったと言われました。


ネパールは野菜も果物もほとんど日本と同じようなものが並んでいました。人参もナスも旨いのですがキュウリだけは特に不味かったです。

ポカラのバイラク空港からぬかるんだ道を車で2時間かかり今夜の宿タンセンの町に着く。タンセンは山肌にあり、坂道ばかりです。宿はホワイトレイクと言い、朝目覚めると眼下に雲の湖が見えるところから名付けたそうですが、厳かな景色でした。

昼食はポテトのカレー風味や水牛の料理、ビーンズの香辛料まぶし等で充分に旨かったですね。またエベレストという銘柄のビールや、ロキシーというドブロクの様なテキーラと焼酎の中間のような酒があり、これも結構旨く酒浸りのような日々でした。

写真は、タンセンの町の上の方へ食後の腹ごなしに歩いて行きヒマラヤを背景にしたものです。


タンセンの丘の上から下りあるお寺へ寄りました。ここでは結婚式が行われていて、周りで見守っていた少女達とパチリ。15歳と16歳の子供達ですが、彫りの深い理知的な顔立ちです。

ネパールでは人口2700万人なのに、部族が大別して4種で詳細に分けると40種にも及ぶそうですが、部族により顔立ちもハッキリと違いがあるそうです。この子達は勉学に励む部族の子らしく英語をペラペラと喋っていましたけど、私はカラッキシですからお恥ずかしい次第でした。「写真をメールで送るよ」と言ってアドレスも聞いて来たのに、書いたメモをガイド氏に預けたまま忘れてしまいました。

なおガイド氏は『ロッシ』と言う39歳の非常に温厚な男性で、カトマンズの空港へ出迎えてもらってから旅は始まりました。

この女の子達との話の中で、同行したメンバーの通訳が誤解を受け、私の事をシングル(独身者)と言った筈がシンガー(歌手)と伝わってしまい、それならこの場所で歌を歌って欲しいとなってしまいました。
何で歌を歌わなければならないのか理解出来ないまま真剣に、結婚式に相応しい様な歌を思い浮かべてみましたが出ませんでした。
結局歌わずに済ませたんですが、後で皆で考えたらば『どうみてもシングルをシンガーと間違えたんだろう』という結論になり、全てが納得いき皆で大笑いでした。
歌っていれば売れないかわいそうな歌手か陽気な外人と思われたでしょうから、歌わなくてホントに良かったです。


13日はホテルで地元週刊誌の記者による取材を受けました。識字率も低く日刊紙が売れて経営が成り立つ状態では無く、週刊にしても赤字。でも頑張って発行しているんだそうです。中央の男性は『オーケーバジ』とよばれる71歳になる日本人男性・垣見さんで、17年前からネパールに入り、学校を作ったり井戸を掘ったりとボランティアを実践している仏様のような方です。

ネパールへの動機をお聞きしたら、「前々からトレッキングが好きで、雪山へポーターを頼んで入っていたところ雪崩に遭いポーターが亡くなってしまい、罪滅ぼしではないがネパールへの奉仕を始めた。」とおっしゃってました。日本にいる息子さんが寄付やら連絡やらの取り次ぎをなさっているそうですが、『オーケーバジ』でネットを当たると登場してこられます。オーケーバジの由来は何を頼んでも「オーケー」と請け合ってくれ、バジというのは『おじさん』という意味だそうです。車の入れない山村が多い中で、頼まれれば何処へでも歩きで(素足にゴム草履)でかけて行き、「オーケー」と言って何時かは実現させる。本当に仙人の様な仏様のような方です。


写真順序が入れ替わっていますが、女の子が写っている結婚式の会場での花嫁さんです。

ここで問題ですが花嫁は誰でしょう?


14日午後は、車で2時間揺られ降りてから山道を1時間歩いてスルダーラという村へ行きました。

3年前の10月に茂木君達が訪れていた所で、「電気は無くトイレは紙を使わずに指で洗うんだ。そして道路はウンコだらけだ。」という凄まじい話を聞かされていましたけど、3年間ですっかり様変わりしており電気は引かれていました。ろくでもない王様を排斥した成果だそうで、国を挙げて電気と道路整備に力を注いでいる最中だそうです。

数年前に埼玉ユネスコを通じて佐藤さんという女性が寄付した学校(我々の後ろにある)があり、村長さんを始め多くの村人が歓迎式典を開いてくれたのには恐縮です。


スルダーラでは民家へ泊めてもらいました。焚き火で暖をとりつつ懐中電灯での明かりの下、年に数回しか食べないチキンで持てなしていただき深く感謝をしています。

14日はバレンタインデーの筈で、日本に居れば義理チョコを幾つかは貰えた筈なのに???大きく違うネパールの寒村、すぐ側で鳴くコケコッコーで目覚めた時には喉がヒリヒリしており、風邪か花粉かは判明しませんが体調不良になっていました。隣が豚小屋だったせいかも?

朝食にはモンジャ焼きのようなものを御馳走になりました。お世辞にも旨いとは言えませんが、噛んでると味わいのあるものでした。そして旅立ちにはヒンズーのおまじないで額へ赤い顔料を付けてもらい、記念の花を頂いてお別れです。お世話様になりました。


スルダーラから帰りながら見た、2歳から5歳くらいの子供が通う学校です。このように素足にサンダルで長時間学校へ通う生徒はみんな元気!どの子も授業中は大きな声で話し、キラキラ輝くステキな瞳を持っています。ただ子供達は輝く目を持っていますが、段々年齢を重ねる毎に輝きを無くして行きます。我々もそうですけど?

この後は大変でした。『行きは良い良い帰りは怖い』の言葉通りで、行きは下り坂が多く1時間で行けましたが、帰りは登りが多く1時間半はかかりました。フーフー言いながら崖から滑り落ちない様に必死で杖にしがみついての行軍は、景色をゆっくり見ている余裕などありません。時折休みを取ってジックリ景色を見ながら、振り返って胸を張ったり先を見てため息をついたりです。驚いたのは同行した渡辺さんという方で、最年長(66歳)なんですがタフでした。本庄で花卉園芸を大きくやっておられますが、日頃の鍛錬でしょう。帰り道は中学・高校へ通う子供達とズーっと一緒だったんですけど、素足にサンダルで息も切らずにニコヤカに歩く子供達と一緒に写真を撮りながら歩いておられ、遥か置いて行かれてしまいました。

ようやく車に乗り、30分で乗り換えた後に4時間もかかってポカラの町へ戻る。帰路感心したのは、道端でサインを出す子供達をスペースさえあればどんどん乗せて行く事です。また山道は狭いので車の譲り合いも見事でした。ツッパリあいなどは絶対にありません。

4時頃ホテルへ入り荷物を置いて、町へ出て食事。再度ホテルへ帰ってから、隣接するホテルのマッサージを受けたが悲惨だった。
インドとネパールのミックスマッサージだけど、寒い部屋でベタベタとオイルを塗られただけで40ドルも取られてしまいヒリヒリする喉も余計酷くなった。


15日は8時半ごろ空港へ行き、ヘリコプターでヒマラヤへ近づいてみた。軍用機みたいなカーキ色のヘリだったが5人で10万円ほどで、気象も良かったせいか怖さは全く感じ無かったです。

そういえば遥か以前にペルーでナスカの地上絵を見た時のセスナ機は怖かったですネ、エンジンがかからずに、予備のバッテリーを運んで来てエンジンをかけたのにはビビリました。あれに比べれば嘘のようです。


飛んでる時間はごく僅かでも素晴らしい天候のもと、途中の小さな集落の空き地へ着陸してお茶を飲んだり写真を撮ったりしながらリッチな気分を味わって来ました。もう少しお金を出せばもっと近い所まで行けたそうで、みんな残念がっていました。
空港を出て世界の高い山の博物館へ行ったが、日本の有名な女性登山家『田部井淳子さん』も展示してあった。

ホテルへ帰り、着替えてから町へ出てお昼は日本食レストラン。喉の痛みを取ろうと冷たいビールをガブ飲みしても効果などある筈は無く、ガイド氏からの漢方薬や同行者の風邪薬やマスクもさほど効果はなかったけど、皆の準備の良さやお心遣いに感謝です。

喉の痛みと山歩きのお陰で相当体にガタがきて上も下も不調の中、性懲りも無く町中のマッサージへ突入したら昨晩とは段違いで、25ドルで90分丁寧にやってもらった。いい気持ちになって腕時計を忘れて出てしまい、結構時間が経ってから気づいて戻ったらニコニコ顔で帰して貰いラッキーの二乗。総じてネパールは治安も良く人々は親切だ。


これが一般的なトイレです。

16日はポカラからカトマンズへ飛行機(40分)で移動し、ホテル・アンナプルナ(行きと同宿)へ荷物を置いて食事。

午後は王様の居た場所パタンを訪ねた。古い施設が多い所だが、ネアール族(仏教)のアショカ王がBC3世紀頃に作ったものらしい。至る所にお堂等が数多く見られ、細い道がグルグル入り組む中をヘバヘバに輪を掛けて歩き回ったが、建物にはハトやスズメが休める様に大きさに合わせ外壁に穴が空いており、3階の高い所へは猫が出入り出来る穴も空けてある。穀類の倉庫が最上階にあってネズミの害を防ぐ為だそうだが、理にかなっている。

なお犬達も随所に居たがノンビリとデレデレしており、吠えた犬には1〜2度しか遭遇しなかったが、国民性の反映かしら?

見学を終え、ホテル近くの繁華街で土産を買ったりしながら巡り回り、夕食はチベット料理を食べたけど安くて旨い旨い。ポテトのカレー味や鍋料理ギョウザまで出て来て、粟から作ったドブロクの様な酒を熱湯で割りストローで飲る。たらふくやって一人700円位だそうです。


カトマンズを立つ日の午前は高名なシバ神の頭を祭るお寺を見学しました。遠くインドからもヒンズー教徒が集まるのはこのお寺です。

コンクリの台で燃えているのは死者を材木で焼いている姿で、全てを焼いて灰にした後川へ流してしまう。下の川に居る人は灰の中から金歯を探しているそうです。合理的と言うか何と言うか???


新たに火葬が始まる様子ですが、正に所変わればやり方も大違い。

直系の親族は一年間白い服で喪に服すそうです。


カトマンズの空港では見送りも軍隊の銃ですが、それほど治安は悪くないのに?

バンコク空港の中でタイ式マッサージを探して歩き回り、最後の土産も調達しました。乗り換え時間が4時間もあるのは、金を使わせようという国家の陰謀ではないかと勘ぐりたくなる。

いよいよバンコク空港を後にしますが、皆さんへのお土産はこの報告だけです。風邪気味で体ガタガタ、この旅行の結論はもっと若いときに行くべきでしたネ。ウダウダいろいろ書きましたが、これを書くのに頭の悪さを嘆きつつ9日間もかかってしまいました。

 

 

 

 

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